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2006年11月10日 (金)

愛情か愛欲か

昨日タイトルに「愛」の文字をつけたらとたんにアクセス数が倍増した。みんな「愛情」に餓えているんだなあ。それとも「愛欲」のほうと勘違いしたひとがアクセスしたのか。後者の方がたかも---

ドキュメンタリーを制作する側から今日テレビでアメリカのドキュメンタリーを見ながら感じたこと。内容は、社会的経済格差を取り上げた番組だった。登場する人物が素顔をみせて本音で語っていた。日本でドキュメンタリーを作る場合、最近は顔を隠すか、モザイクを掛ける手法が目立ってきている。特にニュース番組で目立つ。海外では社会的問題を取り上げるとき、登場者がすすんで素顔を見せることが多いし、自らすすんで番組制作に協力的なのだろう。日本ではどうも取材される側のテレビに対する信頼が欠けているように思えてならないからだ。これはどういう差があるのだろうかと常々感じてきた事だ。取材する側に問題があるのだろうか。まだまだメディアの成熟度が足りないのかもしれない。個人情報の保護で、テレビ画面から人の顔が消えるときが来るのだろうか。制作者側としては、アメリカ型の社会のほうが問題解決への道が開けやすいと考えるのだが。メディアはもっと信頼され、社会的弱者はもっとメディアを信頼して欲しいし、いい意味で我々を利用してくれたらと思う。

顔を隠す理由としてもう一つ考えられることがある。テレビに顔が出た場合、攻撃を受けることがあるからだ。番組を見た人からの嫌がらせやの電話、郵便物が届くからだ。それも匿名による攻撃が圧倒的に多い。典型的な例が、現在進行中の北朝鮮による拉致被害者の家族への攻撃、数年前に起こったイラク人質事件の被害者への嫌がらせなどだ。日本社会のいじめ体質がそうさせるのではないだろうか。いわゆる「村八分」の伝統がいつまでたっても消えない。この社会では、目立ってはいけない、なるべく控えめに生活しなければといった自己犠牲が強いられる。日本はその意味で全体主義社会だ。戦前の社会と体質はそれほど変わっていないのではないか。小泉前首相が吐いた「自己責任」という言葉が流行すると、その流れに乗った人々が個人攻撃に走るのがその証拠であろう。「赤信号、皆で渡れば怖くない」タケシ流思考が、赤信号で止まる人を白い目で見始める社会はぞっとする。

核開発論議を、と訴える政治家の狙いはそこにある。世の中から核開発というアレルギーを取り払い、免疫力を社会に植えつける論法が裏に見え隠れする。論議さえすればこっちのものだという流れは、ここで止めなくては手遅れになってしまう。広島の原爆資料館にも行ったことがない政治家に核開発の【カ】の字も言って欲しくない。

アメリカでは民主党が議会で過半数を獲得した。ブッシュ政権は事実上終わった。あのラムズフェルドが画面から消えたことだけでも世界の良心をもった市民は胸をなでおろしていることだろう。威勢のいい自信に満ちたブッシュJRの顔が引きつっていた。そりゃそうだろう。戦争犯罪人として裁判で裁かれるのが今になって怖くなって来たらしい。ブッシュの親友の小泉さんは、今こそアメリカに行って大統領に慰めの言葉のひとつでも掛けてやるべきだ。それが親友というもんだ。

愛情を持つ人と愛欲に駆られた人がここにきてはっきり分かれてきた。最後は無理やりタイトルに絡めた。

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