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2007年3月29日 (木)

日本縦断の旅その四

3月10日、鹿児島に上陸。始めて見る鹿児島の町並みに驚いた。寺院がやたらと大きい。県庁らしい建物も威圧感がある。江戸幕府を倒した薩摩藩の財力を見せつけられた気がする。かつて17世紀には琉球王国を侵略し支配に置いた薩摩の歴史を垣間見た。さっと見ただけで鹿児島市を離れ、一路われわれを乗せた一部改造エンジンを搭載したトヨタスターレットは宮崎県高千穂に向かった。タイヤにかなり大きな傷を見つけ、高速道路でパンクでもされたもんなら事故を起すと判断し、一般国道を内陸部へと進んだ。

山道には慣れているので鹿児島県と宮崎県との県境の山岳部の国道を選んだ。これが、大変な国道とはつゆ知らず、スターレットは山道を登り始めた。里山ののどかな村落を過ぎ、二車線道路が一車線へ、そのうちにだんだんと道は狭くなり、気がついたら標高800メートルの山道に変わっていた。カーブの連続で車がすれ違うのも困難な道となった。車は宮崎県椎葉村へと入った。沢の一部には雪が残っているではないか。所々、がけ崩れのあとがあり対向車もほとんどなくなった。2,3台とすれ違ったが、不思議に幅の広がったところで出会い、「運がいいね」とか同乗者はのん気なことを言っていた。

突然、「がけ崩れ通行止め、迂回せよ」の標識。国道を外れるとそこは林道。3時間もかけて来た山道を引き返す気力もなく、なすがままに進むざるを得ない状況。杉林の中に一軒家を見つけ、ほっとする。なぜか車内の音楽は「千と千尋の神隠し」がかかっていた。こんな山奥に新しい墓が一つ。何の事情でこんな山奥に暮らし、この山奥で一生を終えた人であろうか。平家の落人の末裔だろうか。峠を越えようやく麓の村にたどり着き燃料を補給した。沖縄ナンバーの車を珍しそうに店員が見ていた。

国生み伝説の高千穂で苔むした「くしふる神社」で参拝を済ませた。この神社は、アマテラスオオミカミの孫二ニギノミコトを祭っている。天孫族降臨の場所。二ニギノミコトが地球に到着した場所だな。

陽は西に傾き遅い昼食を道路沿いのドライブインでとる。店員のおばさんに大分県への道を尋ねると親切に近道を教えてくれた。ようやく九州の中間に差し掛かり日も暮れ始め、別府温泉の湯煙を横目に高速道路を北へと急いだ。タイヤに傷を負ったスターレットはよく走ってくれた。懐かしの関門海峡を渡ったのは午後7時過ぎだった。

続く!

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2007年3月27日 (火)

日本縦断の旅その三

昨日、石垣市議会で景観条例が承認されたという嬉しいニュースが入ってきた。予想を覆して全会一致で通過したそうだ。この条例ができたのは、市民の地道な活動と地元新聞の後押しがあったからこそだ。石垣市の市長は一刻も早く、米原海岸で建設計画中のダイワハウスに開発撤退を申し込むべきだ。ゴーサインを出した責任は重いが土下座すればダイワハウスも許すよ。市長が大阪に出張することがあれば、恐らくダイワハウスの本社に出向くのが目的だろう。市長の動向に注意!

さて、日本縦断の旅は夜明けも近い石垣港でのこと。3月8日午前6時。見送りに来てくれたジローの友人は30人、我々の友人たちも20人くらいいただろうか。汽笛が鳴り、船は岸壁を離れていく。みんなが手を振ってくれている。霧雨は降りつづいていた。風も強く、涙と雨がいっしょになって頬を伝わって流れている。ジローはほとんど号泣していた。流れる涙も拭かず、ただ手すりにもたれたまま背中が震えていた。同級生たちの中にはサングラスをかけ、腕組みをしたまま動かないのがいた。サッカー部で共に汗をかき、試合で負けて共に涙を流し、勝利で笑った親友のひとりがいつまでもこっちを見ていた。ダンス甲子園に出場した友人は着ていたトレーナーを脱ぎ、船が港をでるまでいつまでもそのトレーナーを振り続けていた。こうしてジローにとって奇跡の島の青春物語が完結した。

「サヨナラだけが人生よ」とは誰の台詞だっただろうか。人生に別れは必ずやってくる。悲しみを耐えて成長するのだ。高校生諸君。大半は島を出て行く、しかし島を出たくとも出られなかった者も何人かいたときいた。見送るより見送られるほうが幸せかも知れんぞ。残された者の悲しみの方が深い。

その日の夜にはフェリーは那覇に入港し、我々はホテルに到着した。そこに現れたのがあの甲子園で2本のホームランをたたき出した金城君。社会人野球で時期を待ってプロ野球を目指すのだそうだ。卒業祝賀会の時にネクタイの結び方が分からず、まごまごしていた。トイレの鏡の前で結んであげたのを思い出す。先に島を出た彼はジローが那覇に着くのを待っていてホテルに駆けつけてくれのだ。頑張ってくれ金城君。テレビに映る日を待ってるぞ。「スーパーホテルニュー那覇」3人泊って一泊7千円くらいだったビジネスホテル。しかも朝食付きの値段なので驚いたが、翌日は午前5時にホテルを出発。朝食を食べられずに後ろ髪を引かれながら鹿児島行きのフェリー乗り場に急いだ。沖縄土産を買おうとする。フェリーターミナルの店では、おばさんがシャッターを開けて開店の準備を始めたところだった。お菓子を買おうとすると、そのおばさんは「それは期限切れだから、他のものを買いなさい」という。ピーナッツを黒砂糖でまぶしたのを買ったが、これもどうだか怪しかった。このお土産を未だ食べてない人はなるべく早くたべたほうが良さそうだ。酔う止めの薬は錠剤とドリンク剤とがあり、おばさんは「ドリンク剤が効くよ」と勧めてくれたので800円で2本入りのを買った。これは頭が痺れるほど利いた。

鹿児島行きの船は一等船室をとった。二人部屋だったので3人は窮屈さにも耐え快適な船旅となった。この船は与論島、沖永良部島、奄美大島に寄りながら鹿児島へゆっくりと北上していく貨客船だった。始めは船室の窓から海が見えていたのだが、各港に着くにしたがって貨物のコンテナが増えていき、奄美大島に付くころは窓からは何も見えなくなってしまった。なんだか損した気分になり3人で恨めしそうに貨物を積み込む作業員を見ていた。船の食堂では3人とも焼き魚定食を注文した。ずっとコンビ二食だったので、食事らしい食事は久しぶりだった。翌日3月10日の朝、桜島の横から顔を出した朝日が船を照らし鹿児島港へ入港した。沖縄の風と比べるとかなり冷たく変わっていた。未だ桜は咲いていないらしいが、梅が咲き出していた。

これから一気に九州を陸路縦断する。再びコンビニで朝食を買った。

続く!

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2007年3月25日 (日)

日本縦断の旅その二 

八重山商工高の卒業式が終わったと思ったが、翌日もセレモニーは続いた。3月2日、生徒主催の卒業祝賀式が市内のホテルで行われた。ほとんどの生徒がスーツ、ドレス姿でまるで成人式のようだった。この行事について、学校側と生徒、父母の間ですったもんだしたそうだが、生徒たちは自主的な運営を行った。コンサート、ダンス、くじ引きで大いに盛り上がり、最後の行事は大成功。心配したその夜も何事も無く過ぎていった。

そんな平和な石垣島ではあったが、一方で島全体を開発の波が襲っていた。すでに何度もこのブログでも紹介しているが、米原海岸ではあの、ダイワハウスが虎視眈々とリゾートホテル建設をねらっていた。あれやこれやの手を打ち、計画をごり押しに進めようとしている。島は今やいかに環境を保護するか、その瀬戸際に立たされている。景観を保護するような態度の裏で自然破壊をする企業に手を貸そうとする市長派、それを阻止しようとする市民が議会を巻き込んでまれに見る激しい闘いが続いている。

リゾートホテル問題のほかに、大規模宅地造成に手をつけようとしている。名蔵湾を望む丘の獅子の森で進む工事を知り、高校を卒業した生徒の間でも島の将来に危機感を持つものが多いと聞いた。第二の故郷となった島がどんどんと醜い姿に変わっていく事を知り、ジローも「胸が痛い。どうすれば島の環境が守れるのかと友人たちと話した」そうだ。

3月上旬の石垣島は北風が吹き寒い日が続いた。とても泳げるような気候ではなかった。石垣島に来て一度も泳がなかったのは今回が始めてである。

3月7日、友人宅に泊り、ダイワハウスのリゾート開発を止めるためのこれからの作戦について大いに語り盛り上がった。状況としてはダイワハウスが撤退する時期に来ているのだが、石垣市の市長がどうしてもこのホテルを建てたいらしい。選挙のときにダイワハウス側と密約があったのではという、もっぱらの噂が市民の間に広がっている。よほどの見返りがあったのだろうか。

3月8日、フェリーに乗るため午前5時過ぎに石垣港へ向かった。絶え間なく降り続く霧雨が岸壁を濡らしていた。ターミナルにはジローを見送ろうと友人たちがすでに集まっていた。

続く!

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2007年3月21日 (水)

日本縦断の旅その一

先月の28日から空路、石垣島に渡り、復路は北海道まで船と陸路で日本を縦断してきた。観光を兼ねた久しぶりの長旅だった。

3月1日、息子の卒業式が石垣島の八重山商工高校であり出席した。次男坊は中学一年から高校卒業するまで5年間を石垣島で過ごした。彼にとっては石垣島は第二の故郷になっていた。日本最南端の高校に通うことになった彼にとって石垣島での5年間は人生を左右する大きな大きな5年間だったようだ。

卒業式が近づく一ヶ月前から、「卒業式のことを考えると涙が出てきそうだ」と言っていた。その通りの卒業式になった。卒業生はそのほとんどが島を離れる。家族よりも過ごす時間が多かった友人たちとの別れが待っていた。文化祭や体育祭で絆を深め、さらに野球部の春夏甲子園出場には応援団として声をからし、サッカー部のキャプテンとして少ない人数をやりくりして県大会ベスト16まで進んだ。友人はもとより教師やサッカー部のコーチとも親交を深めた。

卒業式の最初から彼の目は赤かった。校長から卒業証書を受け取るとひと目を気にせずに彼は壇上で涙を流した。同級生から「ジロウ、まだ早いぞ」と声が飛んだ。彼には式の答辞を読む仕事がまだ残っていたので、今から泣いていてはどうなるのか、と心配した。その前のPTA会長、送辞を読んだ在校生も感極まって途中でこらえきれずに泣いた。息子が答辞を読み始めた。涙で時々、声が途切れた。「日本最南端の高校、八重山商工高校は日本で一番温かい高校でした」と答辞を読み終えた時は教師、卒業生、父母たちが泣いていた。もちろん私たち夫婦はいうまでもない。こんな感動的な卒業式に参加できたことを親子で喜んだ。息子にとって石垣島は奇跡の島であった。青春の限りを楽しみ、泣き、笑い、喧嘩もし、多少の悪さもやったらしい。

卒業式の後に中学校時代の高校を中退した友人までもが花束をもってお祝いに駆けつけてくれた。こんな友人たちに囲まれて過ごした息子に僕は嫉妬するほど、彼は素晴らしい5年間を過ごした。石垣島の皆さんに改めて感謝を申し上げたい。感謝してもし尽くせない。

まだまだ語りつくせぬ石垣島の卒業式であった。 続く!

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