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2007年3月27日 (火)

日本縦断の旅その三

昨日、石垣市議会で景観条例が承認されたという嬉しいニュースが入ってきた。予想を覆して全会一致で通過したそうだ。この条例ができたのは、市民の地道な活動と地元新聞の後押しがあったからこそだ。石垣市の市長は一刻も早く、米原海岸で建設計画中のダイワハウスに開発撤退を申し込むべきだ。ゴーサインを出した責任は重いが土下座すればダイワハウスも許すよ。市長が大阪に出張することがあれば、恐らくダイワハウスの本社に出向くのが目的だろう。市長の動向に注意!

さて、日本縦断の旅は夜明けも近い石垣港でのこと。3月8日午前6時。見送りに来てくれたジローの友人は30人、我々の友人たちも20人くらいいただろうか。汽笛が鳴り、船は岸壁を離れていく。みんなが手を振ってくれている。霧雨は降りつづいていた。風も強く、涙と雨がいっしょになって頬を伝わって流れている。ジローはほとんど号泣していた。流れる涙も拭かず、ただ手すりにもたれたまま背中が震えていた。同級生たちの中にはサングラスをかけ、腕組みをしたまま動かないのがいた。サッカー部で共に汗をかき、試合で負けて共に涙を流し、勝利で笑った親友のひとりがいつまでもこっちを見ていた。ダンス甲子園に出場した友人は着ていたトレーナーを脱ぎ、船が港をでるまでいつまでもそのトレーナーを振り続けていた。こうしてジローにとって奇跡の島の青春物語が完結した。

「サヨナラだけが人生よ」とは誰の台詞だっただろうか。人生に別れは必ずやってくる。悲しみを耐えて成長するのだ。高校生諸君。大半は島を出て行く、しかし島を出たくとも出られなかった者も何人かいたときいた。見送るより見送られるほうが幸せかも知れんぞ。残された者の悲しみの方が深い。

その日の夜にはフェリーは那覇に入港し、我々はホテルに到着した。そこに現れたのがあの甲子園で2本のホームランをたたき出した金城君。社会人野球で時期を待ってプロ野球を目指すのだそうだ。卒業祝賀会の時にネクタイの結び方が分からず、まごまごしていた。トイレの鏡の前で結んであげたのを思い出す。先に島を出た彼はジローが那覇に着くのを待っていてホテルに駆けつけてくれのだ。頑張ってくれ金城君。テレビに映る日を待ってるぞ。「スーパーホテルニュー那覇」3人泊って一泊7千円くらいだったビジネスホテル。しかも朝食付きの値段なので驚いたが、翌日は午前5時にホテルを出発。朝食を食べられずに後ろ髪を引かれながら鹿児島行きのフェリー乗り場に急いだ。沖縄土産を買おうとする。フェリーターミナルの店では、おばさんがシャッターを開けて開店の準備を始めたところだった。お菓子を買おうとすると、そのおばさんは「それは期限切れだから、他のものを買いなさい」という。ピーナッツを黒砂糖でまぶしたのを買ったが、これもどうだか怪しかった。このお土産を未だ食べてない人はなるべく早くたべたほうが良さそうだ。酔う止めの薬は錠剤とドリンク剤とがあり、おばさんは「ドリンク剤が効くよ」と勧めてくれたので800円で2本入りのを買った。これは頭が痺れるほど利いた。

鹿児島行きの船は一等船室をとった。二人部屋だったので3人は窮屈さにも耐え快適な船旅となった。この船は与論島、沖永良部島、奄美大島に寄りながら鹿児島へゆっくりと北上していく貨客船だった。始めは船室の窓から海が見えていたのだが、各港に着くにしたがって貨物のコンテナが増えていき、奄美大島に付くころは窓からは何も見えなくなってしまった。なんだか損した気分になり3人で恨めしそうに貨物を積み込む作業員を見ていた。船の食堂では3人とも焼き魚定食を注文した。ずっとコンビ二食だったので、食事らしい食事は久しぶりだった。翌日3月10日の朝、桜島の横から顔を出した朝日が船を照らし鹿児島港へ入港した。沖縄の風と比べるとかなり冷たく変わっていた。未だ桜は咲いていないらしいが、梅が咲き出していた。

これから一気に九州を陸路縦断する。再びコンビニで朝食を買った。

続く!

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