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2007年4月21日 (土)

湖の深呼吸

ドキュメンタリー監督の岡村淳監督に札幌の上映会場でお会いした。サンパウロ在住で20年ほど前にブラジルへ移住したそうだ。ブラジルの日本人移民をテーマに作品を発表している。撮影スタイルは僕と同じで単独である。上映作品は日本人神父がブラジル人のらい病患者を救う為に病院を建設し、患者との交流を描いたものであった。こうした社会問題を取材する為に岡村監督は、撮影対象者との信頼関係を結ぶことが大切であると語っていた。全く同感である。そうでなければ撮影される側の本音は聞き出せないし、作品からにじみ出る真実は映像を見る側には伝わってこない。

同類相憐れむところがあって共感するところが多かった。

「ドキュメンタリーでよく食べていけてますね」と質問すると

「あなたこそ、財産かなんかもってやってるんでしょう」

「いえいえ、岡村さんこそブラジルで悪いことやって稼いでるんでしょう」

などと、冗談を言い合って別れた。もっと話がしたかったが、いずれまたお会いできるような気がした。僕も海外に移住し、ドキュメンタリー制作したいと以前から思ってるので、うらやましい限りである。僕の場合も移住先はすでに決めてあるのだが、事情が許してはくれない。早くてあと4年先かな。僕が日本からいなくなると悲しむ人間より喜ぶやつらのほうが多そうだ。特に石垣島のリゾート開発を計画しているダイワハウス関係者なんかはね。もうしばらくは付き合うぜ。

北海道もようやく春めいてきた。湿原では白い衣を着たミズバショウが顔を出し始めた。僕の遊び場の支笏湖でも魚たちが時々ジャンプしたり釣りシーズンが近づいてきたことを知らせてくれている。春と秋に湖全体の水が大循環して湖底の水と表層の水が入れ替わる現象が見られことは、あまり知られていない。水温4度になると水は最も重くなり湖底へと沈む。表面の酸素をたっぷり含んだ水が沈み、湖底の水が表層へと上昇する。この現象を「湖の深呼吸」というそうだ。そうすることによって湖全体に酸素がいきわたる。支笏湖は最大水深が300メートルもあるので、この深呼吸なしでは湖の生物の数はずっと少なくなってしまうであろう。

自然は偉大であるなあ。

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2007年4月17日 (火)

日米銃撃事件

日本とアメリカで銃撃事件が発生した。まだ事件の詳細はわかっていないが、恐怖と怒りと疑問が入り混じり感情の整理がつかない。アメリカの事件はこれまでに何回も起こった乱射事件と同様に、銃規制の無い社会での出来事で、ニュースで一報を聞いたときはやっぱりまた起こったかと思ったが、長崎の事件はどうしてまた起こったかという思いだ。1990年だったと思うが、当時の本島長崎市長が銃撃され重傷を負った。なぜ、長崎の市長がこうも狙われるのか。長崎や広島の市長は戦後から平和を訴え続けてきただけに絶対に許すことのできない犯行だ。今は何とか市長の命が助かってくれることを祈るばかりだ。「美しい日本」にするには日本社会から銃を一掃する努力を徹底して欲しいのだが、テレビに映った安倍首相の無表情な国会答弁がむなしい。

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2007年4月12日 (木)

暴かれる企業体質

北海道で、伊達火力発電所のパイプライン不正改造の隠蔽行為がバレた。クロム鉱山で働いてアスベストを吸い悪性胸膜皮種という病気でなくなった女性が労災認定を受けた。その女性は苦しんで死んでいったという。50年前の高度経済成長の時代の犠牲者であった。いずれも企業の経営を優先した住民無視、生命に対する犯罪行為だ。

ダイワハウスが計画する石垣島のリゾート開発をめぐる問題で、市民が住民監査請求を市に対して提出した。市長がリゾート開発から便宜供与を受けたという内容だ。これは告発に近い。以前から、ダイワハウスの開発にだけ肩を持つ市長の発言が問題視されていただけに、ついに表に出てきたなという気がする。便宜供与があったのは市長選挙の時期と重なるのではないだろうか。大浜市長は正直に市民にこれまでのダイワハウスの開発を助長した言動を説明する責任がある。猶予期間は60日。もしかするとこれが止めの一発になるかもしれない。

企業のモラルがこんなに低下、否、インモラル体質であったかを知らされるニュースが続いている。不正は暴かれるぞ。そこの君たち。

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2007年4月 9日 (月)

大和ハウスのリゾート計画(テレビ朝日の番組から)

テレビ朝日系列の番組で「素晴らしき宇宙船 地球号」という番組を見た。沖縄県石垣島のリゾート開発をテーマにしたドキュメンタリー番組。本日のタイトル通り、この開発は住宅メーカー大手の大和ハウスが石垣島西海岸の米原海岸に大規模なリゾートホテルを建設しようというものだ。

あらすじは石垣島にある八重山農林高校エコリサーチ部に所属する識名君という今年この高校を卒業した若者がリゾート計画を知り、部活動を通し反対意見を述べていく話となっていた。島の自然をこよなく愛する高校生は環境破壊する計画に絶対反対だ、という。一方、地元で親が食堂を経営する友人は、リゾート計画に賛成だという。その理由は、地域が活性化するし、人口の少ない村にひとが集まるからという。識名君は「浅はかだ」と友人に反発する。

日本中いや、世界中で行われた環境破壊は地域の活性化の為、経済優先の為という理由で行われてきた。その結果、地球はどうなったのか。みんな知っている。我々人間の命を脅かすまでに地球の環境はボロボロに犯され続け、すでに手遅れではないかと思うまで自然破壊は進んでしまった。こんな地球の姿になった今でも利益追求のために、木を切り、水を汚し、空気を汚すことに危機感なんて全く無し。「大和ハウス」は全国にいくつものゴルフ場を建設してきた企業である。ご近所になんとかロイヤルホテルというリゾートホテルはないだろうか。そのホテルに隣接したゴルフ場はないだろうか。それは大和ハウスが建てたものだ。そこにあった美しい森はいまは農薬がたっぷり散布された芝生になっているだろう。もはや、この企業の計画する石垣島米原海岸のリゾート開発計画は人類にいや、全生物に対する犯罪である。断言する。

石垣島は今、環境破壊か保護かの分水嶺に立たされている。石垣島に暮らした3年前に比べ、アパート、マンションは竹の子のように増えた。数年後には新空港が開港予定である。島有数のサンゴが目の前に広がる米原海岸にもしもリゾートホテルが建つのなら、このサンゴ群は死滅するだろう。地下水をくみ上げ、近くを流れる佐久田川に排水を流すとダイワハウスは平然としてその計画書に盛っている。この番組では企業名が伏せられた。日本のテレビが作るドキュメンタリーの限界をこの番組に見た気がする。もはや、大和ハウスのごとき、自然を食いつぶす企業名は公表すべきである。テレビがやらないのであれば我々がやるまでである。罪を犯す大和ハウスは自らの恥を知るがいい。

識名君はこの川を自ら調査し、エビやカニなど自然の豊かさを実感した。僕も米原海岸は何度も潜り、そのサンゴの種類の多さ、美しさを知っている。今年も、この米原海岸で潜ろうと思っている。人間の愚かさを一番知っているのは、この米原海岸に産卵のため上陸するウミガメたちに違いない。今年も間もなく産卵のシーズンを迎える。去年この海岸から海に帰った300匹の子がめたちは今どこからこの自分たちの生まれ故郷のリゾート計画を見ているのだろうか。子ガメたちのうちの何匹かはこの海岸に戻ってくる。その時までになんとしても、この海岸の自然を大和ハウスの破壊行為から守らなければならない。

米原海岸の大和ハウスのリゾート計画に関する詳しい情報はhttp://www.save-yonehara.org/ で

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2007年4月 5日 (木)

日本縦断の旅その七

夜11時ごろ自宅アパートに戻ったときに二人の小さな男の子を連れたお母さんとすれ違った。足元に大きな荷物がある。こんな夜中に変だなと感じたが、「こんばんは」と挨拶すると、お母さんは下を向いて少し頭を下げた。男の子の一人が突然大きな声で「これから家を出ていくんだよ。お父さんとお母さんが喧嘩したんだ」というではないか。ぼくはあまりの突然の子どもの告白にびっくりしたというか子どもの正直さが可笑しくて、つい声を出して笑ってしまった。お母さんは慌てて子どもの口を塞いだ。エレベーターに乗ると、にんにくと酒の匂いが鼻をついた。お父さんの匂いだったのだろうか。その後親子はどこに行ったんだろうかとちょっと心配になった。実家にでも戻ったのだろうか。

3月15日、日本縦断の旅は出雲大社へ。出雲大社は現在はオオクニヌシノミコトを祭ってある。しかし、もともとはスサノオノミコトを祭った社だったそうだ。その証拠に大社の裏に回るとスサノオを祭った神社があった。オオクニヌシはスサノオの子どもだそうだが、六代目子孫との説もあり、その関係はよく解からない。オオクニヌシはいわゆる大黒様。スサノオはアマテラスオオミカミの弟でイザナミ、イザナギの子どもで、この辺の時代はおそらく卑弥呼の時代まで遡りそうだ。スサノオはヤマタノオロチを退治する日本神話の最初のヒーロー的存在でもある。日本書紀とか古事記とか時の権力者の都合でどうにでも書かれたもので、どこまでがほんとで作り事なのかがはっきりしない。実際に全部読んだわけでもないが。

そんな神社に朝食を済ませてから出かけた。参道では土産物屋のおばちゃんがやけに愛想を降りまきながら開店の準備をやっていた。農協さんの団体らしき集団がすでに大勢いて、記念写真を撮ったり賑わていた。スサノオを祭っている社を見つけたときは、まさかここにあるとはつゆ知らず正直驚いた。オオクニヌシを祭った本殿の大きさに比べ、小さな神社に祭られているスサノオとの違いは歴然としていた。国を安定させた功労者と天照大神にたて突いたとされる反逆児的存在の違いがはっきりと見て取れた。

さて、一時間ほどの滞在を済ませ出雲大社を出たあと、オオクニヌシの婦人を祭る恵比寿神社の大元である何とか神社をついでに参拝して急ぎ東へと向かった。何かご利益でもあるのかと期待しながら日本海沿いを走り鳥取砂丘を横目に我らがスターレットは快調にこの日の目的地福井県敦賀を目指していた。京都府に入ろうとした頃だったろうか、連れ合いの携帯に突然の知らせが舞い込んだ。お母さんが怪我をして病院に担ぎ込まれた。あと2時間ほどで敦賀に着こうかというところだった。かなりの重傷だという。結局連れ合いは息子のジローと2人で下関に戻ることになった。地図で確認し京都から新幹線で戻るのが一番早いと判断して、京都手前の福知山駅で二人を降ろした。

またしても僕の人生を象徴するような出来事で、二人は石垣島を出て日本列島の中間まで来てのUターンである。「三歩進んで二歩下がる。人生はワンツーパンチ!」水前寺清子の歌のような旅となってしまった。

入院したお母さんが無事退院することができたは4月2日になってからであった。

スターレットに残された僕は、一人寂しくフェリー乗り場へと向かった。午後8時福井県の敦賀市に到着。数時間後ぼくは、沖縄で買った船酔い止めのドリンクを一気飲みして再び船上の人となった。冬の気圧配置となった日本海は晴れではあったが波が高く、船は揺れた。夕方になり、船室を出るとすでに船は津軽海峡を東に向きを変えていた。窓の外には北海道の渡島半島が広がっていた。午後8時30分、定刻に船は苫小牧東港に入港した。琉球列島を船で九州、中国、近畿を車で、そして北日本を船で駆け抜けた。

北緯にして24度から43度まで、距離にして3000キロの旅が終わった。(終わり)

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2007年4月 3日 (火)

日本縦断の旅その六

今日も雪が舞った苫小牧地方。桜のつぼみはまだ小さく硬い。石垣島からの情報によると、8日の日曜日の夜11時ころからの番組で石垣島の八重山農林高校エコリサーチ部の活動を追ったドキュメンタリー番組をやるそうだ。テレビ朝日系のチャンネルで、「素晴らしき宇宙船地球号」だったかな。最近の石垣島に押し寄せる環境破壊の実態が少しでも分かる番組だろうと期待する。石垣島西海岸の米原海岸にリゾートホテルを計画し、自然を破壊しようともくろむ[ we build heartsのダイワハウス] のことも少しは放映するかもしれないので見てみようか。

日本縦断の旅は、連れ合いの実家のある山口県下関で数日のあいだ逗留。親戚が多いので楽しい数日を過ごした。元学校の先生で小屋造りが趣味のおじさん、レストランを経営するご夫婦、消防士でカメラ好きの若いお父さんとその子どもたち、お絵かき教室を開いているお姉さんとか、いろんな方々がいらっしゃるのでいつ行っても飽きないところである。特に魚が新鮮でおいしいのが気に入っている。

下関に居る間に博多方面にも出かけた。何年かぶりに弟夫婦にも会えて居酒屋で一杯やった。ジローの下宿先への引越しも終え、お墓参りも済ませたので、3月14日、下関を出発した。翌日の深夜に福井県敦賀から北海道行きのフェリーを予約したので、この日はできるだけ走ろうと決めた。とりあえずの目的地は出雲。高千穂に続き、またまた国生み伝説の場所にお参りすることにした。

南の海洋民族がこの国の基礎を固めたと信ずる僕にとって、この旅は大いに刺激的である。何しろ僕の作るビデオ作品のレーベルはヤポネシアビデオである。ヤポネシア思想と自らこう呼ぶ考え方は、沖縄地方の文化を中心に見据えた日本列島を一つの文化圏と見る「壮大な文化民族学的私案」の一つである。分かりやすくいえば沖縄はいわば日本人の故郷のようなところという意味で、しばらく石垣島に通ってみるとそんな気がしてならないのだ。今回は石垣島から北海道島までを船と陸路でたどる一生に一度の旅である。恐らく我々の祖先はアウトリガーをつけた大型のカヌーで琉球列島、九州、瀬戸内海を経て大和にたどり着いたのではないだろうか。また一部は日本海を北上し、北海道に達した。彼らは良港を探しその場所に「泊(トマリ)」という地名を日本海沿岸に点々と残している。また一部の勇敢な青年たちはさらに太平洋を渡り、現在はハイダ族(ポリネシア系民族)が住む北米西海岸に到達したのではないだろうか。

我らが一部エンジンを改造したスポーツカー仕様トヨタスターレットは高速道路を島根県の浜田市まで日本海へ抜けるルートを一気に走ることにした。下関で傷タイヤを交換したので気にせずに走られた。中国山地を縦断するルートで所々に開けた盆地には村や町が点在する風景が後ろに遠ざかる。ところがこの山間部の家が立派な農家ばかりなのに驚いた。茶色のピカピカに反射する瓦屋根でほとんどが統一されており、世界遺産に登録されてもおかしくないような村むらだった。今でいう格差の無い社会があちこちに存在していた不思議な風景であった。夕方に日本海へ出て、風光明媚な海岸沿いの国道を出雲へと急いだ。出雲大社近くへ到着したのは夜の8時ころだった。コンビニで夜食やビールを買い、観光情報紙で見つけたビジネスホテルへ投宿した。

続く!

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2007年4月 2日 (月)

日本縦断の旅その五

おとといの夜、知り合いのやっているライブハウス開店30周年記念のお祝いにいってきた。4階建てのビルはぼろぼろで壁の一部が剥がれるような建物。その2階にある「アミダさま」は中年から子供連れが集まり大変な賑わいだった。オーナーのツルさん率いるブルース集団「アミズム」の生演奏を堪能した。身震いするほどの熱のこもった演奏に酔いしれた。

30年ぶりに帰った故郷は大変な変わりようだった。3月11日、北九州市小倉駅前。高校生だった当時に走っていた路面電車の姿は無く、代わりにモノレールが通りを占領していた。駅前の裏通りにあったどうしても行きたかったチャンポン屋を探した。高校生の頃、駅前のジャズ喫茶によく通った。その名は「アベベ」。その店はすでに消えていた。ところが、そのジャズ喫茶の側にあったと記憶していたチャンポンを食わせる店がまだあったのだ。暖簾をくぐると懐かしい匂いが蘇ってきた。「そうだよ、この匂いだよ」と嬉しくなり、カウンターに座ると同時に「チャンポン、大盛り」と注文した。おばちゃんに聞いてみた。「この店は何十年もやっとるんかね」。おばちゃん「そうよ。50年はやっとるよ」 やっぱりここであった。「おれね、30年振りにこの店にきたんよ」 懐かしさがこみ上げてきた。「そうね、よう来たね」とおばちゃん。そんな話をしていたら、チャンポン屋の隣のパチンコ屋の前で男と女の怒鳴り声が聞こえてきた。「また喧嘩しよる、パチンコに負けた腹いせやね」とおばちゃん。5分くらいも続いただろうか。あまり長いので警察が来るかと思ったが全くそんな気配も無い。これが小倉の繁華街の日常である。30年前と全く変わってないこの独特の雑踏が懐かしかった。日本中の駅前商店街が廃れるなか小倉駅前商店街は平日にもかかわらず、人、ひと、人でいっぱいだった。何だろうなこのエネルギーは。あの小説「東京タワー」に出てくる小倉の町は昔といささかも変わらず、そのアジアなるエネルギーを保ったままであった。

10年以上前、新聞をにぎわせた暴力団の抗争があったときは一般市民らが暴力団に抗議した土地柄である。いわば、暴力団と一般市民の境界が無い、といえば言いすぎだろうか。そんな街で育った僕なので、喧嘩慣れしているといえばそう言える。

チャンポン屋を出て、出身校の小倉南高校に寄って見たら、一年生のときに学んだ校舎が残っていた。そういえば当時はペンキの匂いが残る新しい鉄筋コンクリートの建物だった。裏門にあった「串カツ」を出す駄菓子屋も残っていた。部活の帰りにはいつも寄って「チェリオ」という炭酸飲料とその串カツを食べていたのを思い出した。その串カツがあんまり安いので、一時期、その辺にいる猫の肉を出しているのではないか、という噂がひろまったことがあった。

おじさん夫婦が小倉に健在なので久しぶりに顔を出してみた。昼飯を食ったばかりなので、何も用意しないでよ、と言ったのにお鮨をとって待っていてくれた。二人とも80歳を越しているが、おばさんはまだ車の運転をして、自分で病院に通っているという。おじさんはだいぶん足腰は弱くなっていたが、頭の方はまだまだクリアーだった。おじさんは、60歳で死んだ兄、僕の親父のことを思い出して仕方がないという。「もうじきお迎えが来るよ」といっていた。親父が持っていた日本刀を見せてもらった。ちょっとした名刀らしい。息子のジローは古い日本の文化の興味があったので、鞘から抜いて見せてやると、かなり緊張した面持ちでその刀を見ていた。

後日、おじさんから電話があり、お前に刀をくれてやる、と言い出した。僕は「困る、そんなものもろうても」と断ったが少し惜しい気もするな。

小倉の熱気を思い出すにつれ、今、住むこの苫小牧はまるで腑抜けの街のようで物足りない。その割には事件や事故が多い。人間と人間の接触が少ないのに事件が多いのは何が原因なのだろうか。何か精神的にバランスの悪い街であるな。この苫小牧は。

続く!

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