« 日本縦断の旅その六 | トップページ | 大和ハウスのリゾート計画(テレビ朝日の番組から) »

2007年4月 5日 (木)

日本縦断の旅その七

夜11時ごろ自宅アパートに戻ったときに二人の小さな男の子を連れたお母さんとすれ違った。足元に大きな荷物がある。こんな夜中に変だなと感じたが、「こんばんは」と挨拶すると、お母さんは下を向いて少し頭を下げた。男の子の一人が突然大きな声で「これから家を出ていくんだよ。お父さんとお母さんが喧嘩したんだ」というではないか。ぼくはあまりの突然の子どもの告白にびっくりしたというか子どもの正直さが可笑しくて、つい声を出して笑ってしまった。お母さんは慌てて子どもの口を塞いだ。エレベーターに乗ると、にんにくと酒の匂いが鼻をついた。お父さんの匂いだったのだろうか。その後親子はどこに行ったんだろうかとちょっと心配になった。実家にでも戻ったのだろうか。

3月15日、日本縦断の旅は出雲大社へ。出雲大社は現在はオオクニヌシノミコトを祭ってある。しかし、もともとはスサノオノミコトを祭った社だったそうだ。その証拠に大社の裏に回るとスサノオを祭った神社があった。オオクニヌシはスサノオの子どもだそうだが、六代目子孫との説もあり、その関係はよく解からない。オオクニヌシはいわゆる大黒様。スサノオはアマテラスオオミカミの弟でイザナミ、イザナギの子どもで、この辺の時代はおそらく卑弥呼の時代まで遡りそうだ。スサノオはヤマタノオロチを退治する日本神話の最初のヒーロー的存在でもある。日本書紀とか古事記とか時の権力者の都合でどうにでも書かれたもので、どこまでがほんとで作り事なのかがはっきりしない。実際に全部読んだわけでもないが。

そんな神社に朝食を済ませてから出かけた。参道では土産物屋のおばちゃんがやけに愛想を降りまきながら開店の準備をやっていた。農協さんの団体らしき集団がすでに大勢いて、記念写真を撮ったり賑わていた。スサノオを祭っている社を見つけたときは、まさかここにあるとはつゆ知らず正直驚いた。オオクニヌシを祭った本殿の大きさに比べ、小さな神社に祭られているスサノオとの違いは歴然としていた。国を安定させた功労者と天照大神にたて突いたとされる反逆児的存在の違いがはっきりと見て取れた。

さて、一時間ほどの滞在を済ませ出雲大社を出たあと、オオクニヌシの婦人を祭る恵比寿神社の大元である何とか神社をついでに参拝して急ぎ東へと向かった。何かご利益でもあるのかと期待しながら日本海沿いを走り鳥取砂丘を横目に我らがスターレットは快調にこの日の目的地福井県敦賀を目指していた。京都府に入ろうとした頃だったろうか、連れ合いの携帯に突然の知らせが舞い込んだ。お母さんが怪我をして病院に担ぎ込まれた。あと2時間ほどで敦賀に着こうかというところだった。かなりの重傷だという。結局連れ合いは息子のジローと2人で下関に戻ることになった。地図で確認し京都から新幹線で戻るのが一番早いと判断して、京都手前の福知山駅で二人を降ろした。

またしても僕の人生を象徴するような出来事で、二人は石垣島を出て日本列島の中間まで来てのUターンである。「三歩進んで二歩下がる。人生はワンツーパンチ!」水前寺清子の歌のような旅となってしまった。

入院したお母さんが無事退院することができたは4月2日になってからであった。

スターレットに残された僕は、一人寂しくフェリー乗り場へと向かった。午後8時福井県の敦賀市に到着。数時間後ぼくは、沖縄で買った船酔い止めのドリンクを一気飲みして再び船上の人となった。冬の気圧配置となった日本海は晴れではあったが波が高く、船は揺れた。夕方になり、船室を出るとすでに船は津軽海峡を東に向きを変えていた。窓の外には北海道の渡島半島が広がっていた。午後8時30分、定刻に船は苫小牧東港に入港した。琉球列島を船で九州、中国、近畿を車で、そして北日本を船で駆け抜けた。

北緯にして24度から43度まで、距離にして3000キロの旅が終わった。(終わり)

|

« 日本縦断の旅その六 | トップページ | 大和ハウスのリゾート計画(テレビ朝日の番組から) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本縦断の旅その七:

« 日本縦断の旅その六 | トップページ | 大和ハウスのリゾート計画(テレビ朝日の番組から) »