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2007年4月 2日 (月)

日本縦断の旅その五

おとといの夜、知り合いのやっているライブハウス開店30周年記念のお祝いにいってきた。4階建てのビルはぼろぼろで壁の一部が剥がれるような建物。その2階にある「アミダさま」は中年から子供連れが集まり大変な賑わいだった。オーナーのツルさん率いるブルース集団「アミズム」の生演奏を堪能した。身震いするほどの熱のこもった演奏に酔いしれた。

30年ぶりに帰った故郷は大変な変わりようだった。3月11日、北九州市小倉駅前。高校生だった当時に走っていた路面電車の姿は無く、代わりにモノレールが通りを占領していた。駅前の裏通りにあったどうしても行きたかったチャンポン屋を探した。高校生の頃、駅前のジャズ喫茶によく通った。その名は「アベベ」。その店はすでに消えていた。ところが、そのジャズ喫茶の側にあったと記憶していたチャンポンを食わせる店がまだあったのだ。暖簾をくぐると懐かしい匂いが蘇ってきた。「そうだよ、この匂いだよ」と嬉しくなり、カウンターに座ると同時に「チャンポン、大盛り」と注文した。おばちゃんに聞いてみた。「この店は何十年もやっとるんかね」。おばちゃん「そうよ。50年はやっとるよ」 やっぱりここであった。「おれね、30年振りにこの店にきたんよ」 懐かしさがこみ上げてきた。「そうね、よう来たね」とおばちゃん。そんな話をしていたら、チャンポン屋の隣のパチンコ屋の前で男と女の怒鳴り声が聞こえてきた。「また喧嘩しよる、パチンコに負けた腹いせやね」とおばちゃん。5分くらいも続いただろうか。あまり長いので警察が来るかと思ったが全くそんな気配も無い。これが小倉の繁華街の日常である。30年前と全く変わってないこの独特の雑踏が懐かしかった。日本中の駅前商店街が廃れるなか小倉駅前商店街は平日にもかかわらず、人、ひと、人でいっぱいだった。何だろうなこのエネルギーは。あの小説「東京タワー」に出てくる小倉の町は昔といささかも変わらず、そのアジアなるエネルギーを保ったままであった。

10年以上前、新聞をにぎわせた暴力団の抗争があったときは一般市民らが暴力団に抗議した土地柄である。いわば、暴力団と一般市民の境界が無い、といえば言いすぎだろうか。そんな街で育った僕なので、喧嘩慣れしているといえばそう言える。

チャンポン屋を出て、出身校の小倉南高校に寄って見たら、一年生のときに学んだ校舎が残っていた。そういえば当時はペンキの匂いが残る新しい鉄筋コンクリートの建物だった。裏門にあった「串カツ」を出す駄菓子屋も残っていた。部活の帰りにはいつも寄って「チェリオ」という炭酸飲料とその串カツを食べていたのを思い出した。その串カツがあんまり安いので、一時期、その辺にいる猫の肉を出しているのではないか、という噂がひろまったことがあった。

おじさん夫婦が小倉に健在なので久しぶりに顔を出してみた。昼飯を食ったばかりなので、何も用意しないでよ、と言ったのにお鮨をとって待っていてくれた。二人とも80歳を越しているが、おばさんはまだ車の運転をして、自分で病院に通っているという。おじさんはだいぶん足腰は弱くなっていたが、頭の方はまだまだクリアーだった。おじさんは、60歳で死んだ兄、僕の親父のことを思い出して仕方がないという。「もうじきお迎えが来るよ」といっていた。親父が持っていた日本刀を見せてもらった。ちょっとした名刀らしい。息子のジローは古い日本の文化の興味があったので、鞘から抜いて見せてやると、かなり緊張した面持ちでその刀を見ていた。

後日、おじさんから電話があり、お前に刀をくれてやる、と言い出した。僕は「困る、そんなものもろうても」と断ったが少し惜しい気もするな。

小倉の熱気を思い出すにつれ、今、住むこの苫小牧はまるで腑抜けの街のようで物足りない。その割には事件や事故が多い。人間と人間の接触が少ないのに事件が多いのは何が原因なのだろうか。何か精神的にバランスの悪い街であるな。この苫小牧は。

続く!

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