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2007年11月 1日 (木)

月刊やいま、金城朝夫追悼特集

石垣島に住んだ2003年から2004年にかけてお世話になったジャーナリスト金城朝夫、本名友寄英正(ともよせえいしょう)さんが今年の5月1日に亡くなってから半年がたった。彼を追悼する特集記事を載せた月刊誌「やいま」が昨日、我が家に届いた。

この「やいま」とは石垣島のある沖縄県八重山(やえやま)地方の呼び名からとったたいへん人気のある雑誌で、今年から毎月出版元の南山舎から送ってもらっている。八重山地方の政治経済、文化芸能、イベント情報が満載で知り合いなんかが写真入りで登場する。次男坊は八重山商工高校で甲子園の応援団仲間と一緒に表紙に載ったりしたこともあった。

友寄さんが亡くなったことを知ったのもこの「やいま」だった。最後にお会いしたのは今年の3月に病院にお見舞いに行った時だった。その時は病状もかなりすすんでいた。石垣島の舟大工を描いた僕のドキュメンタリー「波の記憶」のビデオテープを持っていき、手を握ると強く握り返してくれた。病院のデイルームで友寄さんも見てくれたことを看病をしていた娘さんから後でうかがった。前作の「ワイア」(ブラジル先住民族を取材したドキュメンタリー)の上映会にも来ていただき、お褒めの言葉を頂いたことを思い出す。たった一年足らずの短いお付き合いしか出来なかったが、友寄さんがあまり好きでなかっただろうナイチャー(本土人)である僕のことを気に懸けていただき、ケーブルテレビ局勤務時代には右も左も分からなかった僕は取材現場によく案内してもらった。その都度、戦後の島の歴史、御自分の仕事のことを車中で語ってくれたことを思い出す。

「やいま」を読み、あらためて友寄さんが残した仕事の大きさ、戦後の沖縄、石垣島に与えた影響の重さを知った。沖縄の日本復帰後に押し寄せた本土企業の土地の買占め、その土地を買い戻す運動の先頭に立ち石垣島や竹富島を日本企業の乱開発から守ったことは彼が残した大きな足跡となった。2004年までの30年間はテレビ局の駐在記者カメラマンとしてぼくと同じ仕事に携わってこられた。カメラよりペンが本業だとご自身は語られていたようだ。大先輩にとってすれ違いほどの僕との交流でしかなかったが、開発ラッシュで石垣島が危機的状況を友寄さんはさぞかし嘆き、怒り、もどかしい思いで天国から見ているであろう。

石垣島西海岸米原ビーチにCMで有名な本土企業「大和ハウス」が計画中の米原リゾートホテル建設がある。これに端を発する石垣島の環境保護運動にかかわるぼくとしては友寄さんならばいかに行動したであろうか、と常に心のどこかに彼の存在を感じている。この運動は当初、移住者であるナイチャーたちが火をつけた。大和ハウスが過去に行ってきたゴルフ場、リゾート開発がどれだけ環境を破壊してきたか。開発を進めるために反対派、賛成派に地元住民を分裂させた。ぼくは長野県に住んだとき身をもって体験した。たまたま住んだ石垣島でまたあの大和ハウスが出てきたかと思うと居ても立ってもいられなかった。

民族自決はアフリカ諸国がヨーロッパから次々と独立した1960年代に使われた言葉である。現大浜市長の発言にあるように、島の未来は島の人間が決めるという思いがあることは充分承知していた。しかし、その原則を企業が利用しているように見えたからこそあえて僕はこの運動に参加した。本土の企業は地元住民を経済発展の為と騙し、行政や地方政治家も利用し贈収賄は当たり、そして地方の文化、環境を破壊して利益優先の犯罪的行為を繰り返してきた。大和ハウスやその他の企業はその行為を反省し改める時が来ている。いまや環境問題は人類の未来を左右する重要な課題として認識されるようになった。最初は単なるホテル建設反対運動だったがその後、島の人々を動かし島の景観、環境を守る市民全体の運動として発展してきた。この運動は良心をもつ本土からの移住者と島人との共存を考える上で貴重な財産になるのではないかと期待している。石垣島の環境保護運動は確実に実を結ぼうとしている。

やいま11月号で語られている人々の意識は友寄さんの思想を受け継いで石垣島の明るい未来へつながると確信している。八重山の魅力に取りつかれたひとりとして少しばかりのおせっかいを許してください。

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