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2009年1月23日 (金)

35年、18年、ぶりの再会

久しぶりの再会だった。

女房の実家で法事があり福岡経由で山口に行ってきた。

出発前にひと騒動。出かける直前に女房がぎっくり腰になった。テルミー療法でひとまず歩けるようにして、空路、福岡へ。空港から鍼灸治療院へ直行し治療。かなり持ち直しひと安心。

福岡市内のホテルで次男坊、弟と姪っ子ら5人で食事をした。姪っ子は事情があって、会うのは20年ぶりくらいか、初めてかどうだったか記憶が定かでないが、とにかく嬉しかった。次男坊はキックボクシングに目覚めて、ジムに通い始めたという。田舎育ちだったため、都会に出て自分の存在の小ささを自覚した。もっと自分を鍛えるんだそうだ。姪っ子は大学三年、活発で性格も明るく、将来は学校の先生になりたいと言っておった。僕のドキュメンタリー作品のDVDをあげるとびっくりして話に飛びついてきた。

あっという間の2時間だった。

翌日の法事を済ませた午後、故郷の小倉に出かけた。18年ぶりに同級生と会う約束をしていた。場所は同じ同級生が板長をやっている居酒屋だった。

小倉の町は高校時代とはまったく違った。駅前にはビル群が割拠し、モノレールが走っていた。この町を出る30数年前には駅からは小倉城が見えていたが、まったく姿はなかった。北側には大きなキャバレー(確か月世界とか名の)があった。それも無くなっていた。

改札口を出て同級生を待っていると、正面から鼻の穴に思いっきり人差し指を突っ込んだ男が歩いて近寄って来たので、思わずよけた。ちょっと殺気を感じた。

2,3分で同級生のI君はやってきた。再会を喜んで、モノレールに乗り込んだ。阪九フェリーとモノレールの車体に書いてあり、「そうか、フェリー会社がモノレール作ったんか?」と聞くと「違うっちゃ、宣伝ちゃ、第三セクターよ」という。すっかり小倉弁でしゃべっている自分がおかしかった。ぜんぜん俺の小倉弁もいけてた。

居酒屋にはいるとカウンターの向こうで、こっちをじっと見るサネがいた。

懐かしかった。俺の顔をみながら、「誰やったかのう、誰やったかのう」と名前が出てこないので、名刺を渡すと。「おー!トコか」「そうよ、懐かしいのう」と握手を交わした。

昔ばなしをしばらくした。去年、中学校の同窓会をやったという。いろんな人生があり、この世を去ったのも何人かいたのを知った。

「女の子は変わったやろうね」と聞くと「そうやね。10人のうち8人はもうだめや。でも、2人くらいはまだ若いまんまのがおるぞ」

そんなたわいのない会話で盛り上がった。

また同窓会をやるので今度は出席することを約束した。

もう一人の同級生I君は10年くらい前に県会議員選挙に2回立候補した男で、もう一回でたら当選していた。しかし、心筋梗塞で倒れ政治から足を洗った。今は全快し、酒もがんがん飲んでいた。「あいつはどうしてる」と聞くと、すぐに携帯電話のアドレスを見て電話した。選挙に出たので彼は多くのネットワークの情報を持っていた。これからは違う道を模索しているという。

同級生のI君は遠回りをしてまで、小倉駅まで送ってくれた。

再会を約束して別れた。

帰りの電車のなか、夢を見ているような気分だった。ふるさとは暖かかった。

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2009年1月15日 (木)

映画 忘月日記 上映会 終わる

苫小牧市表町のライブハウス「アミダ様」で開かれた映画「忘月日記」の上映会にお越しいただいた方がたに厚くお礼申し上げます。

11日と12日の2日間、延べ50人の方々に見ていただき、中には安平町からご祝儀を持参された知り合いもいて、予想以上の反響に驚いている。

上映前になって、この映画は我が北海道生活20年の体験が元になった物語りであること知ったのは意外な発見だった。冒頭のフェリーのシーンは絶対にはずせないシーンだった。思い起こせば、家族4人でフェリーにのり、小樽港に着いたときが、我が家の北海道生活の始まりだった。そしてウトナイ湖の渡り鳥のシーンは、苫小牧市植苗に住んだことがあのシーンを撮るきっかけとなっていたのだ。

まったくの無意識で完成した映画ではあるが、できるべくしてできた映画でもあったわけだ。

DVD(¥1500)も同時発売。アミダ様や啓北町の私の青空で発売中!

これで、一息つけた。

さあ、これからはカナダで撮影したドキュメンタリーの編集に専念する体制が整ったわけで、気合を入れて日本語字幕版を完成させようと思う。

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2009年1月12日 (月)

ヒステリックなイスラエルの将来

連日、イスラエルのパレスチナ、ガザ地区への攻撃が続いている。

国際的な非難が続くにもかかわらず、なぜだ?

イスラエル建国の方法に無理があったのは歴然としているが、平和共存の道を模索するのができないのはなぜだろう。

もしかしてアメリカの体力衰退がイスラエルの恐怖心を駆り立てているではないだろうか。

このまま、アメリカの経済が縮小していくのであれば、イスラエルの軍事スポンサーがいなくなるのは明らかで、今のうちに目の上のたんこぶほどの存在でしかないパレスチナのハマスを叩いておこうということなのだろうか。

しかし、それにしてもやり過ぎだろう。イスラエルは中東諸国を敵に回してでも、今の戦争を続けていくのだろうか。

アメリカのイラク撤退後、必ず中東イスラム諸国はスクラムを組んでくるに違いない。

イスラエル包囲網は水面下でもう始まっているのかもしれない。

イスラエルはガザ地区の攻撃をやめるべきだ。

イスラエルの国家が存在できるのは平和共存しかないことをイスラエルの指導者は知るべきだ。手遅れになる前に。

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2009年1月10日 (土)

自主制作映画 「忘月日記」---月つむぐ物語り の一般公開

上映準備に追われ、自作の映画上映について書くのをすっかり忘れていた。

明日11日(日)、12日(月)の2日間それぞれ 15:00 と 20:00 の2回、苫小牧市表町1丁目和光ビル2F、ライブハウス「アミダ様」電話0144-34-1947 で開催。

初日の15時の部は所用でいけないが、できるだけ会場に居るようにするのでお越しいただきたい。

DVDが公開同時発売という早業だ。普通は映画公開と同時のこんなことはしないが、今後、上映する予定が立たないので早くもDVD化に踏み切った。

アミダ様のマスター田中ツルが中心のバンド、アミズムのメンバー(辻令華、吉田モモ、田中ツル)が好演し、白老のアイヌ博物館の職員で友人である山丸郁夫さんの演技も堂に入って、気に入っている。

映画のラスト前、山丸さんの台詞に注目! 

この映画は僕の最初で最後のフィクション作品。

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2009年1月 4日 (日)

元ウタリ協会理事長、野村義一さんの逝去を悼んで

北海道ウタリ協会の理事長を32年間務めた野村義一さんが亡くなった。

1960年から32年間、北海道の先住民族であるアイヌ民族の最大の組織の長として活躍された方だ。

その間、日本は高度経済成長時代の最中で歴史上最大の発展を遂げた。しかし、アイヌ民族はその歴史のうらで激しい差別の時代を耐え抜いてきた。いや、日本は、差別というよりも民族根絶=エスノサイドの歴史の恥部を隠したまま、経済成長という宗教にとり付かれたかのような異常な時代を突き進んできた。

野村さんは国連の演説の中で、アイヌは日本にとって存在してはならない民族であった、と語っている。中曽根元首相を代表する政治家たちの発言にみる、天皇を中心とする日本単一民族思想がそういわせている。そもそも日本人は混血による混血で成り立っているのはDNAが証明しているのだが。日本のリーダーの無視と無知がそんな発言を生んでいった。教育が、マスメディアが、政治がこの歴史観を日本人に植えつけていったのだろう。

野村さんは1992年に国連本部で歴史的な演説を行った。アイヌ民族の持つ自然観に基づくしなやかな思想を世界にアピールした。「アイヌはこの大地をウレシパモシリ =万物がお互いに育て合う大地と呼ぶ」と語った。

現人類がアフリカで誕生して以来10万年以上もかけ、試行錯誤をくりかえし、ようやくたどり着いた最も崇高な思想だと思っている。これを否定する文明は存在できないと言ってもよい。

そしてアメリカ中心の世界経済が崩壊の危機を迎えている。

この現状を世界の先住民はどう思っているのだろうか。

西部開拓時代のアメリカでは先住民を当時の大量破壊兵器を使用して虐殺し、大地は収奪され、石炭石油、ウラン鉱石が地球の内部から掘り出されていった。

この北海道も江戸時代からほぼ同じことが行われてきた。明治時代、日本は北海道の植民地化が成功したのをいいことに、よせばいいのに朝鮮半島、中国大陸、東南アジアまで触手を伸ばし、結局はアメリカに追随した植民地政策はアメリカの大量破壊兵器によって、一般市民の多くの犠牲を払い、失敗に終わる。

先住民の側から歴史を見ると政治、経済、教育のシステムの間違いがよく分かる。

何年か前、知り合いから聞いたことだが、アイヌ民族の重鎮であった故萱野茂さんは「私たちは自然界が生んだ利子を使って生活してきた。日本人は元金に手をつけて生活している。こんな簡単な経済の仕組みがどうして頭のいい人たちには分からないのか」と語ったそうだ。

先進諸国にとって、これまでの繁栄の歴史のつけを払う厳しい時代に来たのだ。

野村義一さんとの面識は、以前インタビューで自宅に伺ったのが最初で最後だった。ウタリ協会をおやめになった年だったと記憶している。丁寧に応接間に案内してくれたのを思い出す。本当に温和な人柄が印象的だった。

ご冥福をお祈りします。

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2009年1月 1日 (木)

映画 忘月日記

二〇〇九年 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

撮影開始から三年。29日にライブハウス・アミダ様で製作、報道関係者を招いて特別試写会を開いた。

言いだしっぺのプロダクションが映画制作からいつの間にか撤退、主役が二度変更するという挫折を乗り越えて、ようやく完成までたどり着いた。

これまで制作に携わった友人たちに感謝せずにいられない。

挫折しなかたらと考えると、平坦なストーリーで面白くもおかしくも無い作品になっていた可能性が高い。

失敗は成功の元。結果としてメリハリの利いた物語りとなった。

副題は 「月つむぐ物語り」とした。また、スケッチブックが狂言回しとなり、物語りの進行上、重要な要素となった。

タイトルに月があるように、物語りの途中に時々、月が登場する。影の主役である。

あらすじは、東京からフェリーで苫小牧に来た女性サオリと喫茶店で働く主人公レイが出会う。二人は初対面ながら、どこかで会ったような感じを受ける。

レイの紹介で、春の渡り鳥が空を埋めるウトナイ湖を訪れる。その後サオリはポストマン・ジョニーと名乗る郵便配達夫、山菜取りの老人に導かれ、春本番の里山でニリンソウなどが咲くお花畑を訪れる。

春が過ぎ、夏の海で突然サオリは消息を絶つ。ひと夏の騒動があり、そして秋のポロトコタンへと場面は移り、ミステリアスなラストシーンが待っていた。

春、夏、秋の3部構成になっている。というかならざるを得なかったのだが、初めてのフィクションとしてはまずまずの出来上がり出はないかと自負している。

ところが地元苫小牧の映画館のオーナーが上映に乗る気が無い。

ドキュメンタリー作家がフィクションのメガホンを持ったのが気に入らないらしい。

それは無いだろう。

ぼくは目的を達成する為には手段を選ばない。今までも、スチール写真、ペンと道具を変えながら取材し発表を重ねてきた。今でこそドキュメンタリー作家という肩書きだが、フィクション映画だって道具として使う。作品つくりが目的ではない。

この忘月日記の秋の場面で、先住民族アイヌの長老とレイの会話の中でこの映画で一番表現したかった台詞が交わされる。

年明けにはDVD発売予定

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