« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月12日 (月)

北海道にオオカミを放せばヒグマも喜ぶ話

北海道にはかつてエゾオオカミがいた。明治時代に家畜を守るために殺され絶滅していった。かつては、肉食獣の最高の地位、生態系のトップにいたはずだった。人間が生態系を破壊した身近な実例である。

そして北海道の生態系は崩れたにもかかわらず、「大自然の北の大地」とかエセキャッチコピーが幅を利かせている。北海道はそのほとんどが開発され原生林はほんの一部知床半島など限定した場所でしか残っていない。

自然に優しい、地球に優しい人間に戻るには北海道に狼を放すべきなのだ。エゾシカが増えすぎ、その食害は北海道では年間30億円にのぼるらしい。

日系カナダ人のデビッド・スズキ博士の書いた「グッド ニュース」という本にはこんな記述がある。シカは牛の仲間で硬い蹄があり、地面を固め、植生が単純になってしまう。それ故、森林の多様性が保てなくなる。アメリカには狼を森に放した実例がある。その結果どうなったかというと、まず森が再生し、植生が豊かになった。さまざまな植物が実を生らせ、さまざまな小動物が増えた。アメリカ植民地時代以前の生態系が戻ったのだ。ただ、マイナス面も当然ある。狼の住む付近の家畜が時々襲われる。しかし自治体が犠牲になった家畜の保障をする。この政策によって農家の心配は解消した。

北海道はヒグマが街に現れたというニュースを時々見る。森の生態系が戻ればヒグマの餌となる木の実や山菜が増え、人間との接触は減るだろう。

オオカミを放せば、ヒグマやリスや鳥が喜ぶ。アライグマも適正な数に落ち着くだろう。しかも人間は安全に暮らせるという話。

苫小牧東部の原野に自然を戻そうという計画がある。エゾオオカミに近いのを連れてきたらどうだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 7日 (水)

JAL再生と地方空港

台風が近づいて数キロ先から海鳴りが聞こえる。依然住んだ沖縄には立て看板が無い。それに比べて北海道の道路にはあらゆるところが看板だらけ。被害が心配だ。

ブラジルで旅客機に乗ったとき、内陸部のクイアバからサンパウロまで1000キロを旅した。その時の航空機は3箇所ほどの空港を経由したことを思い出した。

今、日本で問題となっている日本航空と地方空港の経営危機を解決する方法はこれだ。

日本でも地方空港を何箇所か経由しながら最終目的地へ向かう各駅停車のような航空会社を作ったらどうだろう。

例えば札幌発那覇行きの航路だと青森、茨城、静岡、神戸、北九州、奄美などを経由して終着空港の那覇まで飛ばすやり方だ。もちろん格安チケットにする。遠くへ行けば行くほど割り安にする。JRのように途中下車しても2,3日間同じ航路は同じチケットを使える。会社を引退した中高年や若者の貧乏旅行にはもってこいでは無いだろうか。

民主党による補正予算の見直しで、宮崎のそのまんま東知事は夜も眠れないと嘆いていたが皆でもっと知恵を出し合おうではないか。文句だけ言ってる知事は次の選挙で落選だ。

航空機は出発地と目的地を往復するという固定観念を捨てるのだ。

何とかなるぜ。想像力が地方政治に求められる時代が来ている。

| | コメント (0)

2009年10月 4日 (日)

民主党の政治と私ら市民の役割

経済の歴史を考えた。

最初は自給自足でそのうちに物々交換がはじまった。次に人類は幸か不幸か貨幣を発明した。そして「賢い」者が富を蓄積し始め経済格差を生んだ。

富の集中で支配者が現れ、権力を掌握し政治経済を司り、ますます一部の人間が富を支配する結果となった。

この社会構造が定着し現在に至っている。自民党的政治は富を持つものと富を支える庶民の役割をこれまでと変わらず続けようとした。庶民は富を支配する側に立とうとして必死に努力を続け、これまでの経済の仕組みになんら問題はないものとして受け入れてきた。

気が付けば、富は一方通行のまま(一部は庶民にも回っては来たが)いつまでたっても庶民の幸福度は上がってはこなかった。

この仕組みに待ったをかけ、富の分配の仕組みを変えてもっと富を支える庶民の生活を向上させようとしているのが、民主党の政治だと期待している。

経済の国家統制は社会主義的だと批判する者がいる。今こういった批判するのはこれまでの政治で富を独占してきた側であろう。一度おいしい汁を吸った者はなかなか手放そうとはしない。だから富の分配は機能しなかった。自民党は言う。まず富の分配元を太らせて、市民に分配する。そこんところがどうしても信用できない。

「留まる水は腐る」ように金も然り。

前にも書いたが、資本主義時々社会主義でいいとした。谷垣自民党総裁のいう保守だろうが革新だろうが言葉の定義はこの期に及んではどうでもいい。

富の一方通行は、庶民の反発を買い流血の革命が欧米でかつて起きた。暴力革命は新たな支配者を生むだけで経済構造は変わらなかった。明治維新もそうだった。

「金は天下の回り物」というではないか。

目先の儲けに血眼になっていては富は二代目で傾き、例外を除いては三代目には使い果たしてしまうのが落ちであろう。その代表が麻生太郎であった。このままでは民主党、共産党、社民党、国民新党があれば充分で自民党不要論が出てくるかもしれない。いわんや公明党は---。

幸福な社会とは、金が回りまわって気が付いたら手元に巡ってくる。金よりももっと大切なものが各家庭に蓄えられている。そんな社会へのスタート台にやっと立った気がする。市民が政治家をチェックし、叱咤激励して育てる社会にしたい。

政治家は、家族の幸福を守るのが精一杯で全体を見る時間がない市民に代わって、全体の流れを交通整理する我々の代理人にすぎない。社会の設計士という政治家や施工する官僚を雇っているのは我々であるぞ。それぞれの役割を分担しているだけだ。

一時は日本社会に絶望しやけくそになった時があったが、雲の間から光が差し込んできたエンジェルズラダーのような希望が見えてきた。

もしも民主党が市民を裏切ったときはまた革命が起こるかもしれない。政治家諸君の責任は大きいぞ。

いつも言うが「自由、平等、博愛(友愛)」社会を発明した北米先住民は7代先のことを考えて行動の基準としているそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »