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2011年4月26日 (火)

脱原発をめざすため国民投票を!

国民投票で脱原発の意思表示をしようという運動が始まった。
[請願の趣旨]
 今回の福島第一原子力発電所の大事故は、「原発は絶対安全」といわれてきたことが事実でないことを明らかにしました。全国には、浜岡原子力発電所をはじめ地震と津波の危険にさらされている多数の原子力発電所が存在します。
 私たち日本国民は、これまで原発問題につき、十分に討議し、意思を表示してこなかったのではないか、それが今回の大事故の原因の一端になっているのではないかと反省しています。私たち日本国民は、子子孫孫につながる責任を自覚し、原発政策の転換につき歴史的決断をしなければならないと考えます。
 私たちは、主権者たる国民として「日本国百年の大計」を定める国民投票により私たちの歴史的決断を明らかにしたいと考えますので、国会が上記請願事項にもとづく立法等の措置をとっていただくよう心よりお願い申しあげます。

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2011年4月23日 (土)

被災地 三 脱原発に向けて

被災地への支援に個人、団体がそれぞれの立場でそれぞれができることをやり、小さな力が大きな力となって来たことを実感している。

と同時にここにきて、クニとはわれわれにとって何なのか、国家、政府はいったい我々の命を守ってくれるのかという疑問も湧いている。

自衛隊の派遣も政府は初期段階では少なめの派遣だった。すぐに修正し、菅首相はひんしゅくを買った。ヘリコプターで被災地への生活物資投下も法律に違反するために道路が開通するまで待たされた。灯油もなく、被災者は凍えて眠れぬ夜を何日も過ごすことを強いられた。

これが北海道だったらと思うとぞっとする。我々は凍死して被害は拡大しただろう。

GDP世界第三位のクニがこの程度の緊急行動しかできなかったのか、というのが国民の大多数の思いではないだろうか。

”心をひとつに”というスローガンが広がっている。増税のための布石だ。その前にできることがあるだろう?民主党が政権を奪取した当時のマニフェストを実行すれば増税回避は可能ではないのか?市民に被災地支援をさせておいてさらに増税か!

コミュニティのネットワークがあればクニは不要ではないのか、という疑問さえ湧いてくる今日この頃である。

「お前はアナキストか」と問われてもいっこうにかまわない。

結局は自分たちの命は自分たちで守るしかない。

仮設住宅もほとんどは手付かずで、今だに避難所生活だ。自民党の女性代議士が民主党の動きの遅さを批判していた。

もっともなご意見だ。しかし、福島原発事故はあんたたち自民党が進めてきた利権がらみの原子力行政が引き起こした人災だろう?東電が政財界、マスコミ、学会、周辺住民にばら撒いた金はいったいいくらなんだ! 

原発事故については民主党への批判を聞かない。自民党は原子炉が冷えるのを静かに待つしかないのだろう。民主党にだって東電の金は流れているという。

最大の余震が関東東北地方を襲うのは時間の問題だ。その時のことを考えるだけでもぞっとする。いま目の前に広がる平和な町がいつ被災地と同じ運命をたどるかわからない。

原発を全て廃止する時が来ているのが、分からないのかね。マスコミが伝える原発推進派の国民の数、半数以上だと? 多すぎると思うのはわしだけではないだろう。

誰だ!

恥を知れ、この期に及んで、まだ原発を容認する人類の敵は。いや、地球上すべての生き物を破滅に追い込もうとするバカタレは。

原発推進を反省し、方向転換したソフトバンクの孫社長に続く普通の頭をもった経営者がもっと現れることを切に願う。

被災地の悲惨な状況を見た人は人生観が変わる。

変えなければ。Fukushima_gennpatsu_photo8

        我々の町の近くにある原発がこうなる前に

     脱原発に向けて”心をひとつに”する時が来たのだ

       

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2011年4月18日 (月)

被災地 二

地震と津波から一ヶ月経ってようやく現地入りが叶った。

苫小牧からのフェリーが八戸行きから青森行きに到着地を変更して運行再開され、被災地のガソリン事情も回復し始めた。また三陸方面への国道45号が陸前高田までほぼ開通した。

ガソリンを満タンにした。現地でガソリンを入れることはガソリンスタンドに列を作って待つ現地の人たちの生活を妨げるからだ。テント、水は50リットル、食料などを積みこんだ。現地では誰かの助けを請う事はできない。現地での生活は自己完結形の装備でなければならなかった。

青森を午前9時過ぎに出発し、国道4号を八戸に向かって走る。八戸の郊外を通過して間もなく、一目で津波の被害とわかる野田市がフロントガラス前面に広がった。海岸沿いの松林がなぎ倒され、家があったはずの場所は瓦礫の海に変わっていた。思わず「ウアー!」「ひどいな」と声をあげた。

行方不明者一人の被害に終わった普代村に入った。防波堤が津波から町を守った唯一の村ではないだろうか。国道45号から断崖の上を走る県道に入る。海面からは300メートルほど上を走る。田野畑村との境にある黒崎キャンプ場をベースキャンプに決めた。

Ca3e0075 シーズンオフのキャンプ場にただ一人。ここならトイレの心配はいらない。スコップをもって林の中で用を足せば済む。

Uvs110416011漁港を守るはずの防波堤が横倒しになり、船の航行を困難にしている。前出の斉藤さんがあと10年はかかるかもしれないと言ったのも誇張ではない気がする。元の漁業はできないかもしれないが、小型の船での一本釣りの漁など付加価値の高い魚の漁業はできないものかと思い浮かぶが、素人の考えなど軽々しくは口にできない。漁民の受けたダメージは我々の予想を超えて大きい。

翌朝、避難所の撮影をしようと車を走らせたのだが、どうにも身体が避難所に向かない。港の被害の様子を少し撮影して、ベースキャンプに戻り、ビールをがぶ飲みして午後は寝てしまった。

夕方、起きると西からの強風が昨日から吹き荒れて、スイセンの花が揺れていた。

これだけ強い風が吹けば、福島原発の放射能は海上へと吹き飛ばされて拡散しているのだろうと思いながら、レトルトの夕飯を食べた。

三日目の朝、小さな浜に出た。陸地のはるか上に横倒しになったままの車が放置してある。中に人がいるのではないかと思い、近寄ったが、上着とジャージが捨ててあった。車の持ち主は車ごと流されて亡くなったのではと思われた。手を合わせ、浜に下りた。

避難所について、役場の職員に撮影の許可をもらおうと名刺を出した。課長と呼ばれていた60歳近い職員は「ドキュメンタリー? 映画ですか、よわったな、テレビや新聞は前例があるが、映画ですか。ちょっと待ってください」と言って役場に電話をかけてくれ、ようやくオーケーがでた。早稲田大学の学生たちがボランティアに来ていて、体育館のような広い避難所に設置するというダンボールを切り抜いた間仕切りを作っていた。

その様子を見ていたのが漁師の斉藤さんだった。「今は頑張ろうという気持ちだ。とにかく小さくてもいいから家がほしい」と何度も言っていた。

仮住まいの家となる仮設住宅はまだこの村では建設されてはいなかった。

テレビでは「東北の人は我慢強い」としきりに褒めている。

確かに自然災害は防ぎようがない。しかし我慢にも限度がある。

この地方では1847年と1853年、南部藩の圧政に対して農民一揆が勃発している。

理不尽な人災に対しては抗議行動を起こす伝統がある。

このまま、仮設住宅の建設が遅れ続くことになると住民の感情は爆発するかもしれない。

政府の対応は遅すぎる。

Uvs110416016高台に残る家屋。

一日でも早い仮設住宅の建設が必要だが政府に被災住民の声はどれだけ届いているのか。

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2011年4月17日 (日)

被災地

津波の映像は何度か見てきたけれども、被災地に足を踏み入れると被害の大きさに圧倒され、言葉を失う。

波に飲み込まれた人々、その様子を目も前に見せ付けられた人々のことを思うと精神的なダメージの大きさは計り知れない。

先週、4泊5日の被災地撮影から戻ってきた。

岩手県田野畑村。人口は4千人余り。主な産業は水産と酪農である。北上山地が太平洋にそのまま落ち込むリアス式海岸なので平野は村全体の16%。断崖絶壁の岩山と岩山の間の土地にある漁村が大津波によって被害を受けた。高台に残る家を見ると津波の高さは40メートルくらいはあったのではないだろうか。Uvs110416013

港にはつぶれたままの軽トラックが放置されていた。

家族で漁業を営む斉藤さんというベテランの方に話をうかがうことができた。「油断があったんだ。今度の津波警報もたいしたことはないだろうという、油断があったんだ」もう一人の佐藤さんというお年寄りは「年寄りや子供は真っ先に高台に逃げた。若い人たちが津波にやられた」 斉藤さんは地震当日は宮古市の港に魚を水揚げして休んでいたという。地震があったので船に乗って沖に逃げたそうだ。引き潮が大きな渦を巻いていたが、どうにか津波を乗り越えて逃げられたという。港に帰る途中に三人を海から拾い上げて救助した。「津波というやつは家だけではなく、顔見知りの人もさらっていった。悔しい」といって人目をはばからずに泣いた。敗戦後の食糧難を経験した斉藤さんは「もう一度やり直そうと思う。もう一度頑張ってみようと思う」と涙ながらにカメラに向かって決意を表した。「だけど三年や五年では元通りにはならないと思う。10年くらはかかるんではないか」と覚悟をきめた。Uvs110416003

流された三陸鉄道の線路の横に花束が置いてあった。おにぎりといっしょだった。この村の使者行方不明者は39名だそうだ。ほとんどは顔見知りの人たちだっただろう。それだけに村人の悲しみは深い。

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