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2011年4月18日 (月)

被災地 二

地震と津波から一ヶ月経ってようやく現地入りが叶った。

苫小牧からのフェリーが八戸行きから青森行きに到着地を変更して運行再開され、被災地のガソリン事情も回復し始めた。また三陸方面への国道45号が陸前高田までほぼ開通した。

ガソリンを満タンにした。現地でガソリンを入れることはガソリンスタンドに列を作って待つ現地の人たちの生活を妨げるからだ。テント、水は50リットル、食料などを積みこんだ。現地では誰かの助けを請う事はできない。現地での生活は自己完結形の装備でなければならなかった。

青森を午前9時過ぎに出発し、国道4号を八戸に向かって走る。八戸の郊外を通過して間もなく、一目で津波の被害とわかる野田市がフロントガラス前面に広がった。海岸沿いの松林がなぎ倒され、家があったはずの場所は瓦礫の海に変わっていた。思わず「ウアー!」「ひどいな」と声をあげた。

行方不明者一人の被害に終わった普代村に入った。防波堤が津波から町を守った唯一の村ではないだろうか。国道45号から断崖の上を走る県道に入る。海面からは300メートルほど上を走る。田野畑村との境にある黒崎キャンプ場をベースキャンプに決めた。

Ca3e0075 シーズンオフのキャンプ場にただ一人。ここならトイレの心配はいらない。スコップをもって林の中で用を足せば済む。

Uvs110416011漁港を守るはずの防波堤が横倒しになり、船の航行を困難にしている。前出の斉藤さんがあと10年はかかるかもしれないと言ったのも誇張ではない気がする。元の漁業はできないかもしれないが、小型の船での一本釣りの漁など付加価値の高い魚の漁業はできないものかと思い浮かぶが、素人の考えなど軽々しくは口にできない。漁民の受けたダメージは我々の予想を超えて大きい。

翌朝、避難所の撮影をしようと車を走らせたのだが、どうにも身体が避難所に向かない。港の被害の様子を少し撮影して、ベースキャンプに戻り、ビールをがぶ飲みして午後は寝てしまった。

夕方、起きると西からの強風が昨日から吹き荒れて、スイセンの花が揺れていた。

これだけ強い風が吹けば、福島原発の放射能は海上へと吹き飛ばされて拡散しているのだろうと思いながら、レトルトの夕飯を食べた。

三日目の朝、小さな浜に出た。陸地のはるか上に横倒しになったままの車が放置してある。中に人がいるのではないかと思い、近寄ったが、上着とジャージが捨ててあった。車の持ち主は車ごと流されて亡くなったのではと思われた。手を合わせ、浜に下りた。

避難所について、役場の職員に撮影の許可をもらおうと名刺を出した。課長と呼ばれていた60歳近い職員は「ドキュメンタリー? 映画ですか、よわったな、テレビや新聞は前例があるが、映画ですか。ちょっと待ってください」と言って役場に電話をかけてくれ、ようやくオーケーがでた。早稲田大学の学生たちがボランティアに来ていて、体育館のような広い避難所に設置するというダンボールを切り抜いた間仕切りを作っていた。

その様子を見ていたのが漁師の斉藤さんだった。「今は頑張ろうという気持ちだ。とにかく小さくてもいいから家がほしい」と何度も言っていた。

仮住まいの家となる仮設住宅はまだこの村では建設されてはいなかった。

テレビでは「東北の人は我慢強い」としきりに褒めている。

確かに自然災害は防ぎようがない。しかし我慢にも限度がある。

この地方では1847年と1853年、南部藩の圧政に対して農民一揆が勃発している。

理不尽な人災に対しては抗議行動を起こす伝統がある。

このまま、仮設住宅の建設が遅れ続くことになると住民の感情は爆発するかもしれない。

政府の対応は遅すぎる。

Uvs110416016高台に残る家屋。

一日でも早い仮設住宅の建設が必要だが政府に被災住民の声はどれだけ届いているのか。

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